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<第1回>

(はじめに)

 最近若い教職員の人たちによく「生活つづり方とは何か」と問われる。その都度すかさず、「解放教育を進めるためのものだ」と答えてきた。すると当然のように、「では解放教育というのは何をするものか」という問いが返ってくる。そこでまた「そもそも解放教育とは」という話になっていく。特に解放教育、「同和」教育が、「人権教育」と呼びならわされるようになって以来私は、このような会話を何度もしてきた。
「解放教育と生活つづり方」というようにこの二つは、並べて語られることが多い。しかしこの二つの概念は元来別々のものである。
 生活者としての子どもが、生活の事実をありのままにとらえ、そのことを文章にする過程を通じて、ものを見る目、感じ方を育て、認識を育てるという生活つづり方の手法は、戦前から引き継がれてきた一つの教育方法である。
 これに対し、荒れと低学力に典型的に表れた差別の現実に直面する子どもたちの生活の事実とその子どもたちの生活を規定する親の生活の事実、そこに分け入り、子どもの認識をその根本から組み立てていこうとする教育の総称を解放教育と呼ぶ。だから解放教育は、「差別の現実に深く学ぶ」ことをずっとその命題にしてきたのであり、子どもがその時々の生活の事実をどうとらえ、また何をどう考えているのか、その考えがどう変化したのかをありのままつづらせることでつかむという解放教育実践の従来からのスタイルはまさに、生活つづり方の方法に学んできたといえる。
 以下、具体的な質問に答えながら、解放教育と生活つづり方について考えていきたい。

まず、つづり方に出会ったきっかけを教えてください。


☆「解放教育」への意気込み

 二十年以上も前になります、大阪の解放教育が最も盛んだといわれた頃、私もいわゆる「同推校」にいて、「しんどい」子にいかに寄り添うのかということをいつも考えていました。部落問題学習をどう進めるのかといつも必死でした。集団主義で差別に立ち向かう子どもを育てようと、周りのみんなも真剣でした。子どもたちに、「しんどいことをみんなに語ろう、それをみんなで考えよう」と語りかけ、それが集団主義教育だと信じてやっていました。今もそのこと自体は間違いではなかったと思っています。
 でも少し後になってある先輩に指摘されたのです。その一連の取り組みの中で、教師が自分たちの思いを子どもたちに押しつけ過ぎて、それが子どもの自由な言葉を封殺してしまっていないかということ。つまりいつの間にか子どもたちが、生活から生み出された子どもたち自身の言葉を使わなくなっているということに私たちが気づかなくなっていたのではないかということです。当時、口を開けば、「部落差別に負けないようにがんばります」と、どの子にもそう言わせなければなければいけないというような、そんな雰囲気がありました。だから子どもたちも確かに、安易にそういう言葉を使うようになっていました。教師はついその言葉に酔い、満足し、それで安心していたのですね。

☆「荒れる」子どもの姿から見えてきたもの

 「しんどいことを書きましょう」という直接的な教師の呼びかけに、ある子どもが、「しんどい。ぼくはしんどい。うちの姉ちゃんがシンナー吸うのがしんどい。テレビの後ろにシンナーを見つけた。ぼくはしんどいと思った」と、「しんどい、しんどい」と書きまくったことがありました。これに対し、「この子はしんどいことを話してくれたね。書いてくれたね」と先生たちは喜びました。でも実は、次にこの子をどう導いてやるのかが問題だったのです。むしろそれがスタートだったのに、まるでゴールかのように錯覚していたのですね。つまり教師も子どもたちもそこで思考停止してしまっていたのです。
 ある時、「がんばります!」と卒業していった子どもたちが、半年もたたずに荒れ始めました。小学校ではあれほど取り組みを進めたのにと、つい中学校に責任を求めたり、「これこそ部落差別のせいだ」と改めて言う人もいました。実際私も、「そうかな」と思ったこともありました。でもよく考えると、先にも言ったように、子どもたちの認識が十分に育っていないまま、私たち教師が子どもに、大人に都合のよい言葉を押しつけていたのではないか。そういうことなんだと気づきました。やっと、生活の事実から生み出された子どもの言葉で、子どもが自分の生活を考えるということを、私たち自身が十分に定着させることができていなかったということに気づいたわけです。その時に私が辿り着いたのが、生活つづり方でした。
 でもその時私の周りには、生活つづり方をいっしょにすぐにやってみようという人はいませんでした。逆に、「こいつ、何を言うてんねん」とさんざん言われました。「そんなことに手間ひまかけるのだったら、もっと子どもの事を考えろ」と言われたりもしました。
 例えば、「(着目児だとされる)Aが、大きなトカゲを見つけたと日記に書き、喜んでいる」と同僚に報告すると、「そんなこと、どうでもいい」と一蹴されたことがありました。「家族で大笑いした」と書いたと言うと、「そんな甘いことを言っているようじゃだめだ、部落差別は、もっと厳しいんや」と言う人もいました。これには驚きました。本当にそうなのかなと思いました。「笑い」があるからこそ人はつながる。それが人間というものでしょう。もしそんな考えを子どもたちに押し付けていたのだとしたら、子どもたちは自分たちの前から逃げてしまうのはあたりまえではないのか。そう思うようになりました。これは本気で、今までやってきたことを反省しないといけない、そんな気になりました。もう二十年も前のことです。(つづく)

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このページでは生活綴り方についての理解を深めるために、実践的な理論と考え方を紹介します。連載のかたちをとることが多くなります。
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